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古戦場めぐり「会津戦争・母成峠の戦い(福島県猪苗代町)」

古戦場めぐり「会津戦争母成峠の戦い福島県猪苗代町)」

◎『会津戦争母成峠の戦い

「母成峠(ぼなりとうげ)の戦い」は慶応4年(1868) 8月21日、会津戦争戊辰戦争)で最も注目された戦いの一つです。

二本松藩との戦いを制した新政府軍(西軍)は、次の作戦を練っていました。江戸の大総督府の参謀・大村益次郎は、「枝葉(会津藩を除く奥羽越列藩同盟諸藩)を刈って、根元(会津藩)を枯らす」作戦で、仙台・米沢への進攻を指示します。しかし、二本松にいる参謀・板垣退助と伊地知正治は、「根元を刈って、枝葉を枯らす」会津攻めを提案しました。不慣れな雪国を攻略するには、リスクが高すぎると判断したからです。また、国境警備で会津藩内が手薄になっていたことが好機と考えられました。結果、冬の到来の前に根元を刈る会津への進軍が選ばれました。一方、旧幕府軍(東軍)は会津西街道(日光口)や勢至堂峠(白河口)、そして二本松と若松を最短で結ぶ中山峠(二本松口)といった主要ルートに兵を配置し、新政府軍からの攻撃に備えました。板垣退助ら新政府軍は、旧幕府軍の裏をかこうと中山峠に陽動部隊800を先に派遣し、母成峠に集結することになります。

慶応4年(1868)8月20日に麓で前哨戦が行われましたが、兵力差と火力差はどうにもならず会津藩は敗走し伝習隊が大損害を出しながら、何とか新政府軍を阻止し全面崩壊は免れました。翌8月21日、新政府軍は圧倒的な兵力を集中して一挙に会津国境を突破しようとして、板垣退助谷干城・伊地知正治らが率いる薩摩・土佐・長州・佐土原藩兵ら、新政府軍約3000が母成峠(福島県猪苗代町)に進撃します。これに対して旧幕府軍は、大鳥圭介ら伝習隊、土方歳三斎藤一新撰組、それに会津仙台藩兵の約800が、天嶮に拠ってあくまでもこれを阻止しようとして、会津藩境の母成峠で衝突します。母成峠の戦い戊辰戦争における有名な戦いで、会津を目指す新政府軍を迎え撃つ旧幕府軍は兵力を分散し、ここ母成峠は一番険しい道だったためあえて兵力をうすくしていました。戦いは、前日の山入の戦いを皮切りに濃霧の中、終日行われましたが、要所を守ろうと旧幕府軍が耐えますが、圧倒的に兵士の数が足りません。大鳥圭介率いる伝習隊が善戦するも、結果、兵力及び兵器の差で新政府軍には勝てず旧幕府軍は遂に猪苗代方面に敗走し\xA1

⊃契坼楫海麓秕松覯爾忙ε類垢觀覯未箸覆蠅泙靴拭◀海寮錣い寮鏤犲圓蓮~馗堵\xCD75名、新政府軍25名ほど、負傷者はその5倍程度は出た大激戦でした。母成峠を突破した新政府軍は、中ノ沢温泉方面から猪苗代へ進撃し、猪苗代城代・高橋権大夫は防戦をあきらめ城に火を放って撤退しました。新政府軍はそのまま会津に向けて進軍、会津藩は敗走兵に加え、白虎隊などの予備兵力をかき集めて出陣させましたが、戸ノ口原で破れ、23日朝には若松城下への突入を許してしまいます。この戦いは、会津攻めに勢いをつかせたことから重要な戦いの一つといわれています。

○「母成峠古戦場」(猪苗代町蚕養母成)

猪苗代町中ノ沢温泉と、郡山市磐梯熱海石筵(いしむしろ)を結ぶ母成グリーンライン(有料道路でしたが今は無料開放)の最高部を、母成峠(標高972m)といいます。母成峠の戦いという戊辰戦争において重要な戦いがあり、現在、峠には古戦場である旨を記す母成峠古戦場碑(昭和57年10月6日建立)や慰霊碑、戦要図説明板があります。紅葉や牧場、ふくしまの水三十選にも選ばれている名瀑「銚子ヶ滝」など安達太良連峰の心和む景観が広がり、ドライブをしながら景色を楽しめ家族に人気のスポットです。

西郷頼母歌碑】

 ?なき魂も 恨みは晴れてけふよりは ともに長閑く 天かけるならん?

この歌碑は会津藩家老・西郷頼母が、明治22年4月24日に初めて阿弥陀寺で殉難者慰霊祭が開催されることを喜んで詠んだ歌だそうです。

【防塁・塹壕跡】

峠の南東側に、長さ348mの防塁・塹壕が残っています。この防塁は元々、関が原の戦いの前夜、慶長5年(1600)に上杉景勝が築いたものです。それを幕末に会津藩が改修・再利用したものであり、どこまでが上杉氏時代のものか、会津藩が付け加えた部分がどれか、入り混じっていて分別はできません。

【母成峠での新撰組

福良(三代口)から開戦直前に合流した新選組は、大鳥圭介率いる伝習隊と共に、東の間道からの敵(新政府軍右翼)に備えて石莚川の急崖上、銚子ヶ滝近くの勝岩付近に配備されていました。大鳥圭介の『南柯紀行』に、次の記載があります。

?余(大鳥)は大隊並びに二本松の兵を師いて勝岩の上に登り北方の敵に当たれり。(中略)我れに胸壁あり彼には無ければ甚だ防ぐに便なりければ、味方死傷も無く戦いを為したり、勝岩の下方には第一大隊新撰組合併の人員にて防ぎたりしが、余心元なく思い少し下りて之を見るに、?

大鳥の記述によれば、勝岩周辺での戦闘は当初、地勢や胸壁を活かして優勢に進めていたようですが、正面の守備隊が第一戦線を突破され、更に新政府軍の右翼部隊に大きく東方を迂回されるに至り、大鳥らも峠の本営(第三台場)まで後退せざるをえなくなります。そもそも兵力を母成峠に集中させられなかった会津藩は、伝習隊や他藩兵などの応援部隊を含めても総勢800程度と少なく、その程度の兵数で勝岩方面を含む、これほどの長大な防衛線を維持するのも難しかったものと思われます。

【戊辰戦役東軍殉難者埋葬地】

猪苗代方面に向かうと、道路沿いに「戊辰戦役東軍殉難者埋葬地」の標識があります。この戦いで戦死した東軍(会津藩)兵士の遺体は、地元の人々によって新政府軍の目を盗んで仮埋葬され、昭和53年に発見されました。